昭和51年07月18日 朝の御理解
御理解 第54節
「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」
神徳を受ければ心配はない、それはもう神様を信ずると言う事だけでなくて、神様から信じられるというのが御神徳と言われるのですから、神様を信じておるというだけでも心配は段々薄らいで来るでしょうね、神様を信じておったらどんな場合であっても信じておる。どういう風に信じるかというと、神様のお働きの中には一分一厘間違いのない働きがあっておる、だから神様のお働きの中にゃ、勿論難儀困ったと言った様な事もあるけれども、それとてもやはり神愛の現れだと信ずる事が神様を信ずる事だと思うんです。
ですから神を信ずるというだけでも心配が段々なくなってくる、ましてや徳を受ければ心配はないと確かにそうだろうと思います。神を杖につけば楽じゃと仰せられます。それは神様を信じておるから、神様一本にお縋りしておるから安心じゃというおかげが頂ける。その上に神様の神様から信じられるところのおかげを頂いたら、もういよいよもって心配はない、神徳を受ければ心配はない。不安心配のない世界に住まわせて頂くということを、信心の目当てともしなければなりません。
私今朝から御祈念中にリラックスということを、何回も繰り返し頂くんです。悲しいけどこちらはそげなんあちらの言葉は分からんもんですから、どういうことだろうかと私は思うた。それで今竹内君にリラックスとはどういうことかと聞かせて頂いた訳です。したら気分が楽になるということだそうですね。そこで皆さん神徳は受けないでもです、神様を信ずるということもまぁ出来なくてもです、合楽のなら親先生を信ずる事だけでもリラックスになる事でしょうね。
神徳を受ければ心配はない、その神徳を受ければ心配はないというその心に、限りないおかげが約束されるんです。ですから神を信ずるということ、いわゆる神を杖につけば楽と仰る、そういう神様が信じられるようになると楽になる。けども中々神様を信じられないに致しましてもです、合楽にお参りされておられる皆さんがです、はぁやっぱり合楽に行くとそこに生きた神様の働きを見たり感じたり、又は体験させて頂くのです。お話しを頂いている間にも、例えば心配があったのが段々心配がなくなってくる。
いやもうそこの障子を開けて入って来て、私がここに座っとったというだけで楽になる。だから絶対おかげになるです。リラックスな心におかげがある訳です。例えば皆さんが字を書かれるでも、良う書かんならんと思うて書いたらなかなか良う書けんでしょう、楽くぅな気分で書くと、自分ながら惚れ惚れする字が出来る時があるでしょう、不安であり又は焦燥これがいかにおかげの邪魔をするかということが分かります。
久留米あぁ田主丸のむつやの女主人でありました、今の信司さんのお母さんです。商売上である大変心配な事で今から、久留米にその交渉に行っとりますとこう言う。行きがけに寄られた訳ですね。当時の椛目に。私は夏の事でしたから、裏の柿畑がありましたね、その柿畑の横に古い私共の使用しておる井戸がございました。私はその井戸の側であのう椅子をもって行ってあのう日陰で涼んでおりました。
そこへあのう清子さんが見えられましてから、その心配な事をお届けされましたから、私は見るとはなしに井戸をこうやって見させて頂いておりましたら、上に一杯こういろんな木がございました。その井戸の中に木の葉が一枚ぱらっとこう落ちた。私が井戸をこう覗いておるそこへこう波紋ができた。そしたら今まで私の映っておった顔が崩れてしまった。だから私がそれを石井さんに話した。「ほら清子さん見てんなさい、今まで私の顔がこんなに映っとったのが、あの葉が一枚落ちただけで波紋ができた。
波紋ができたら私の顔が崩れてしまった。お取り次ぎを頂いていくことだからね、心配いりませんよ」と、それで不安で心配でたまらん。だからお参りをしてお取り次ぎを頂いていくところから、もう右になっても左になっても、神様のおかげと頂く時に安心が出来る、今井戸に映った私の顔が、木の葉一枚の落ちて波紋が消えるように、心に波うったり心が波紋が広がって行ったんでは、映るおかげも映らないのだと。
これは例えば清らかだとか、清らかでないとかということではない、信心が出来とるとか出来とらないじゃない、例えばそれはもうそれこそ匂いのするようなたんぼ中の水であってもです、平静であればやはり影が映るでしょうが。どんなに清らかな水であっても、そこに波紋が生ずるような事であっては、どんなに心がふなら清い人だというても、おかげが頂けるということではない。おかげというのはそういうもんだ。いわゆる心がリラックスになるわけです。
お取り次ぎを頂くお取り次ぎを頂くというものは、だからそれを頂かなければお取り次ぎを頂く値打ちはないです。心配事をもって来といてまた心配事をもって帰るような事ではおかげにならんです。もって帰るなというてもやっぱもって帰る、と言う訳ですけどそれは結局私を信じてないからです。どんな例えば困ったとか難儀とか心配な事であっても、不安な事であってもお取り次ぎを頂いたら、心が平静になる心が楽になる。そういうおかげを頂かなければおかげは映じません映りません。
昨日合楽会でまぁいろいろお話しを聞かせてもろうたり、させて頂いた事でしたけれども、皆さんがこうやって共励会にでもみえる、そうすりゃ話を聞くだけじゃなくて、やはり自分の信心、または体験も発表させてもらうと言う事にならなければ、ただ気分だけでは、自分の発表も出来ない様な事ではつまらん。昨日はもう一人一人それを発表しました。そして日頃は色んな体験も持っておる、おかげを頂いておるのだけれどもいよいよ話すと言う段になったら話がまとまらない。何を話して良いのか分からない。
ですから例えば神様へ向こうてくる、今日はどこどこの共励会に行くという時には、もうどこどこの共励会におかげ頂くと思うたら、心を神様へ向けておく、例えば福岡の秋永先生なんかが、福岡からここまでやってくる間に色んな体験を頂いて、また色々感じた事が素晴らしいならお話しになってくる。心に掛けておるからです。心に掛けておらんと内容を持っておってもお話しになってきません。そういう心掛けにです、神様が見るもの聞くもの全て御理解と言う様にです、お話しをさせて頂く事が出来る。
ただその場にいってあなた発表しなさいと言うても、中々内容を持っておっても出来ない、心掛けが悪いから。昨夜御祈念の時に頂いた事をまぁ聞いて頂いた訳なんですけれども、以前本で読んだか聞いた話の中に、そのある名優と言われるいわゆる名人の役者さんが、楽屋で衣装を着けてちょんまげをこう結ったかつらを被っておられる。それで絶対楽屋で巻きタバコをスパスパのむ様な事は決してしないというのです。
やっぱり煙草をのむ時にはちょっと古風にキセルを出して、それでそのうこつこついわせながら煙草を吸うという。いうならば昔の人を演ずる。ちょん髷物を髷物演ずる人がです、スパスパ楽屋で巻き煙草どんのみよったっちゃ舞台に出てから気分がでらんというのです。だからやはりキセルでこうやって吸うという、いうならばそういう名人の人の、いうならば演技に対する心掛け。信心もそうです、心掛けです。
そういう心掛けがあるところにです、見る物聞く物が全部おかげ話というか、体験話というか、お話しのきっかけというか、そういう材料が出来てくる。それが自分の信心になる。そして神様の間違いない働きを、神様に心をずっと向けておるから、そういう心の状態が開けてくる。昨日直方の山本さんが、今直方から毎日一時の夏期信行に通うて見えられる。もう本当にまぁ一生懸命打ち込んでおらなければ出来る事ではありません。お家は大きなお茶の卸し工場をやっておられます。
昨日の事がね、昨日は済んでから帰ろうと思いよったら、高橋さんが途中まででも車に乗せて行きましょうと、バスに乗って汽車に乗って博多で乗り換えて、こう何時間の時間を費やして参ってみえる訳ですね、で昨日はどっかちょうどあちらへ行く人が、あのう安藤さんもやっぱりあちらの方から日参なさっておられます。それであちらに行きなる人だけ高橋さんの車に便乗させてもろうて、帰れたらいつもより一時間も早く帰った。
ところが家ではもうあのお茶の進物が沢山きて、これば何時までにお収め納にゃならんち言うて、母がじたばしよううとせんならん、はぁあの人がおんならばと言いよるところへ帰ってきた。そしたらお母さんが喜ばれる事が「もう本当に神様ち合楽の神様ちゃ間違いないの」と言うて喜ばれたとこう言う。おかげで時間に間に合うた。いわゆる合楽の神様ちゃ間違いないなぁ、親先生の言われる事は一分一厘間違いないなぁと、私はそれを信じる事だと思うんです。そこにどういうことであっても楽になれる。
いわゆるリラックスになれる。リラックスになるその心がおかげを頂き留のです。それには私共が心掛けがいるのです。間違いのない働きを見たり、聞いたり感じさせて頂けれる。例えばここ二、三日毎日の事ですけれども、一昨日の朝の御理解の中に、上野先生がこう手が不自由な、それでいて一生懸命ピンポンをしておるお知らせを頂いた。それは上野先生だけの事だけではない、お互いがですまぁ言うならば心の手が曲がっておる、言うなら心の不具者の自覚というものが出来てくる。
それでもやはり一生懸命、こう来たならばあぁ受けよう、ということをお話しを頂いて分かっておりますから、どういう問題でもそれをおかげで受けようと、一生懸命努めておる事が涙ぐましいごとある。ところが悲しいかな手が不自由ですから、そうだとは有り難く受けなんと思うても、それを曲がった根性で聞くと、腹の立ったりイライラしたりモヤモヤしたりするような風に受けてしまう。
はぁこれではならじと稽古しておると言う、あの御理解を頂きましたでしょう、これは上野先生が頂くということじゃなくて、合楽に通うて見えれる全部の人にこの事を教えられるのですよ、昨日の御理解に末永先生がね、壱岐の帰りに有田に親先生のお土産を買いに行っておる、帰って来たらこの控えの横で修行生を全部集めて、ステテコを一枚ずつ配っておるという御知らせを頂いたという、公子先生が頂いたという。
だからなんじゃかんじゃ分からんというけれども、御神意を頂くとステテコというのはい、うならばだらしがないという事、ステテコ姿というものはいうならばだらしがない。それに「そ」という字を一つつけるということが、信心の修行の姿勢だと。ステテコそれに「そ」を付けるから「すててこそ」と言う事になる。ステテコ姿じゃもう何もかにもがすってんてんにならにゃならん。けれども「そ」をつけるとです、お徳が受けられる。捨ててこそ浮かぶ背もあるのであり。
我情我欲を捨ててこそ我が身は神徳の中に生かされてあり、という喜びを体験実感する事が出来る。なら捨ててこそです死ぬまいと思うから疲れる。死んでもままよと思うから心が楽になる。いわゆるリラックスになる。四神様の御教えの中に「船もろともの気になれば楽じゃ」と仰った。船もろともという気になれば楽じゃと、さぁ波が高こうなってきた、船が木の葉のように揺れる、いつ沈没するか分からんと思うから気が気じゃない。けれども船もろともと腹が決まった時に楽になる。
いわゆるリラックスになる。だからおかげを受ける。そこでならお願いをさせて頂いたけれども不安である、心配であるという時にはです、御理解を頂いても尚且つ心に不安が生ずるならばです、本気でなら大払信行でもやってみる、一生懸命御祈念をさせて頂く、不思議に心が楽になります。だからおかげを受けるのです。今日は神徳を受ければ心配はない、これはもう絶対のいわゆる大安心であります。神様を信じておるだけではない、神様から信じられておるのですからね。
そこでなら私共が神を杖につけば楽じゃと、金やら物やら人じゃない、神を杖に一心につくということは、神を信じておるから神様任せになれるのだ。神を杖につけば神を信じておるというだけでも心が楽になる。そこでなら神を信じるということはまぁだなら出来んに致しましても、合楽を信じるいうならば、親先生を信じる、合楽で起きてくる働きそのものを信じる。
昨日話した事でしたけれども、本当に合楽の方達の場合はです、もう神様が本当の信心をしていうなら安心のおおみかげを頂いてくれよと、その安心のおおみかげにこそ、人間の幸せの条件の全てが足ろうて来る程しのおかげを頂けれるんだと、それこそ神様が頼むように切々と懇々と言い聞かせて下さる、聞き明かして下さる、説き明かして下さる。それもただ一生懸命私が説き明かすのではない、神様にただ今も頂いたように。
神様にお知らせを頂いて、昨日の場合でも一昨日の場合でも、こういうあり方になればおかげが頂けれるぞ、神徳が受けられるぞという話を、右左にする様な事ではおかげが受けられない、けれどももちっと神様のお話しというかお言葉をです、もう少し本気で信じそれを行じさせてもらう精進を、しなければいけないねというてまぁ話した事です。ただの話じゃない、神様の御心の内をもうそれこそ吐露しながら、皆んなに神の思いを皆さんに聞いて下さる。
その神様の思いを、お互いが頂いて日常生活の上に頂き現していくという、おかげを頂かなければ勿体無い。そこからいうなら一分一厘間違いのない、働きを受ける事が出来る。その一分一厘間違いのない働きの中に、しかもお取次ぎを頂いての事であから、心が楽になる。その楽な心におかげがある、そりゃあなた方の心はまだ濁っておるでしょう、汚いかも知れません、匂いのするような、腐れ水の様かも知れませんけれども、楽になるというだけでです。
たんぼ汁でも何か入れた途端やはり手を持って行けば、手が映る顔を持って行けば顔が映るようなもんです。お取次ぎの働きというのはそういう風にです、私はお取次ぎを願うものに対してまず安心を与える、そこにお取次ぎを頂く値打ちを、私共は知らなければいけません。今日は徳を神徳を受ければ心配はない、まぁ神徳を受けるというのはなかなかに致しましてもその過程、先ず神を信じれる信心を頂かにゃいけん、先ず合楽の親先生の言われる事、される事を見たり聞いたりしながらです。
はぁなるほど神様じゃなぁ、神様の働きじゃなぁと分からせて頂くところから、自分の問題難儀をなら難儀をお取次ぎを頂いた時に、親先生が言うて下さった事であるからと心が平常心になる。リラックスになる。だからそこに神様が十分のお働きの場というものが心に出来る事になります。イライラしたり不安がなったり、いうならおかげの頂けれるありとあらゆる反対の心を使うということは、それだけでもおかげが映じておっても映じておるおかげを打ち消す事になるのです。
勿体無い話であります。神徳を受けて心配ないとまでは、程遠いに致しましても、合楽にお参りして親先生にお取次ぎ頂いて、親先生が心配はいらんと言うて下さったら、本当に心配はここにお供えして帰えるくらいの事までは、一つ信心を進めて行くというか、私をいうならば研究して頂いて、私の言うておる事が間違いでない事が、信じれれるところまでは早くおかげを頂きたいですね。
どうぞ。